地図ひとつとっても

「知の技法」のなかで中村雄祐氏がフィールドワークについて学生に説明している。そのなかの事例がたいへん興味深い。
中村氏はフィールドワークによる研究活動として1987年初頭にマリ共和国でしばらく暮らしたそうだ。その村に住む人々は昔から住む人々だ。村人は何ら困らないが、新しく暮らし始めた中村氏は地図が無いことを不便に感じた。そこで、学者らしく、みずからコンパスをもち測量しながら地図を作成した。その地図を村人に見せたところ、さすが白人は良いものを作るという反応だったそうだ。
しかし、しばらくの間、その地図をもとに村人とコミュニケーションを続けていたところ、何かおかしいと気がつく。実は、村人たちは、その地図を全く理解できていなかった。中村氏は言語が無いと地図も理解できないと推測する。
が、さらに考えを進めると、村人たちには、われわれが使う地図が唯一の道を示す役割を果たすモノでは無いということが理解できるようになる。村人にとっては、こんな地図が無くても、日々畑を耕し収穫することに何ら問題がない。むしろ、中村氏のほうが地図が無いと場所もわからない迷惑な存在ですらある。

地図ひとつとっても、さまざまな発見につながる。先週のブログに書いた米国での体験。

http://d.hatena.ne.jp/Mejiro/20060713
彼女は私がロスアンジェルスで購入したアトラスの全米の道路が(アバウトに)記載されている地図をみて、すぐに自分の居る場所が発見できなかった。どうやら、地域限定の地図しか彼女の生活には必要がないようだ。地図を見て「これは良いね」のようなリアクションまで見せた。

実はかなり身近な国でも同様の体験はできる。