「なぜ、算数を学ぶのか?」

最近の子供は、「なぜ、学校に行くのか?」、「なぜ、算数を学ぶのか」と親や教師にたずねるらしい。われわれの世代は、学校にいくのは当たり前で、算数を学ぶのも当たり前だった。実は、この質問に大きな社会の変化が潜んでいる。

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

この下流志向を読むと、当然、自分の身近な人間も含め、この国は崩壊に向かうのではないかと心配になる。作者によれば、子供達が先のような質問をするのは、学校や教育を値踏みしているからだと言う。ここの論理はたいへん鋭いモノの見方だ。それは、いまの子供達は、社会との接点を「消費」という行為から入るからだと見ている。

「消費」とは、つまり、モノを買うということだ。そして、モノを安く買うためには、それが欲しいというような素振りを見せてはならない。そして、その価値を自分で見極め、それに見合ったお金を支払うことで成り立つ。いまの子供はこれを教育の場でも実践しているという。たとえば、この授業は、40分のうちの10分にしか値しないと判断すると、10分間だけはまじめに授業を聞くが、あとの40分は、努力して、雑談をしたり、教室を歩き回ったりするという見方だ。

この努力してというところが肝心だ。変な姿勢をすることの方がよほど疲れるはずなのに、子供はわざわざ、その授業の価値を値踏みするために、そんな行動をしている。これは意図的にやっているとしか思えないという考えだ。

そのため、子供は、教育も値踏みする。そのために、「なぜ、学校にいくのか」と質問する。

この質問に答えは無い。それは当たり前だからだ。人を殺してはいけないという次元と同じ。仮に、何かを答えたとしても、質問した子供には理解できないし、判断できない。なぜなら、判断基準を学んでいないからだ。つまり、その判断基準を養うために、教育を受けるということだ。

いま、この国は、下流志向に向かっている。このように、子供達が、なぜ学ばなければいけないかが、わからなくなってきている。その答えがわからないために、判断能力を学ぶ機会すら身につけられなくなってきている。

さいごに、教育とは「権利」であり、「義務」ではない。いま、この国は豊かであるが、この権利が無い時代には、子供も労働力の一部となってしまった。そして、教育が無いために、下流社会から這い上がれない。