何でもできるひとたち

息子の中学高校は自由奔放。自ら学べと教え本当に放っておく。たしかに型にはまらない優秀な子供を育てている。学校で毎年ファミリーコンサートというイベントを開催している。これが結構おもしろくこの数年楽しみに見てきた。そのなかで、顔姿も美しく、スポーツも万能らしく、さらにピアノをプロ並みに弾きこなす生徒がいた。毎年コンサートで大活躍で、自らがソロで弾いたり、友人の伴奏をしたりで何度も出演する。全くの他人ではあるが家内とともに顔も名前も覚えてしまった。その生徒は当然のごとく現役で東大の理科一類に入った。

「東大式絶対情報学」。この本を読み進むにつれ、この著者にものすごく興味を持った。おそらく私が知らないだけで、音楽界や情報学の世界では有名であることは間違いなかろう。作曲家、指揮者、東大助教授と紹介されている。

東大式 絶対情報学

東大式 絶対情報学

著者は息子の友人のような何でもできる生徒だったに違いない。私立武蔵の出身とのことであるが、武蔵の教育方針も自由奔放であり、その環境がさらに才能を育てたはずだ。さらに学生に教える立場としてのスタンスも非常にしっかりしている。

最近の学生はケータイメールになれていて文章を簡潔に書くメールが多いようだ。しかし目上の人や社会人のコミュニケーションとして、そういうスタイルはおかしいと学生に教育している。挨拶文も書けないようなメールを見ると、ひとごとながら心配になる自分としても著者のスタンスに「お、わかってる」と思う。

そして、学生にプレゼンの初歩を教えている。プレゼンする相手のワーキングメモリーに配慮するべしという教えや、教師が一方的に評価するよりも学生が相互でフィードバックしあうのが一番効果的という経験則も、つね日頃感じていることと同じだ。

ただ、このあたりまでは「ならし運転」。この本から最も強く伝わるのは、能動メディアと受動メディアの違いに対する筆者の考えあたりから。ブロードバンド化が進展する前のネットは文字が中心。文章は自らが理解しなければならない能動メディア。しかし、ブロードバンドが進み、いわゆるマルチメディアがネットに出現する。このマルチメディアが提供するのは音がついた映像。これはひとの脳に直接働きかけてしまう。その象徴が2001年9月11日の自爆テロだと言う。マスメディアを介して世界に喧伝することを目的とした「劇場型」テロリズム。全世界に容易に恐怖を感じさせることができる。著者の友人がオウムに入信しサリン事件で逮捕されたことにも触れながら、現在のネット環境のなかで思考停止に陥ったり洗脳される危険性についても警告する。

学生からは超人と評されているらしい著者。最近の世の中は、金持ちになりましたという成功物語や起業に成功した人たちをもてはやすのが風潮だ。そんな流れと一線を画し、知をわかりやすく世に伝えるという使命感すら感じる本だ。

いまから天才少年に生まれ変わることはできないが、せめて気持ちだけでもこうありたいものだ。