「武士道」は遠くになりにけり

 「国家の品格」に触発され、新渡戸稲造の「武士道」を読んでいる。行きつけの本屋はたいしたものだ。文庫本のコーナーを一生懸命に探しても見つからない。こんな有名な本なのにけしからんと思い、立ち去りかけた。ところが、入り口付近、「国家の品格」の隣に山積みになっている。おまけに、藤原正彦氏の推薦までついている。


 この「武士道」が書かれた背景が面白い。新渡戸稲造が外国人と話している際に、日本人には宗教教育なしに、いかに道徳を学ぶのか、とか、日本人は何故こんな行動をするのかという問いに明確に答えられなかったのが執筆のキッカケ。そのため、「かく語りき」という外国の哲学や道徳の引用を豊富に用いて、武士道を背景とする日本人の道徳や行動の特性を外国人にむけて説明している。


 これによれば、士農工商という身分制度のなかで、「士」は教養、道徳を極め、世の中の見本となるべき存在であった。その一方で、「商」は、ひたすら金儲けをする存在であり、人様に尊敬されることは世の中に求められなかった。そして、この価値観が200年にもわたる太平の世で重要だった。西洋のように、権威を持つものまでもが金儲けに励むと、社会にものすごい格差が生じてしまうからだ。


 さて、今の世のわれわれはどうなのだろう。かなり大きな格差が生じようとしている。商が徹底的に金儲けに走るのは、経済社会を発展させるうえで必要であろう。あえて否定する気はない。しかし、「金は無くとも、教養、道徳ともに高めています」なんて胸を張って、とても言えそうに無い世の中だ。また、以前書いたように、試験に暗記が不要で、ネットなしでは国の歴史も語れず、そのネットのなかの頭脳は米国にあり、おまけに品性までもが低い国民では、あまりにも悲しい。


 実は、最近心配になっていることがある。こうやってPCに向かえば、さらさらと文章が書けるのだが、筆を持つと、まず漢字が思い出せない。とても長い文章など書けそうにない。武士道では書体は人となりを表していると信じられていたそうだ。いまの自分は、品性どころの話ではないのだ。